十字架のもとで、父と母と過ごした春の日。その十日後の朝、父は静かに天に召されました。桜が散ったあとの春の光は、どこかやわらかくて、悲しい知らせの中にも、ふしぎなあたたかさを運んでくれるようでした。
父のそばには、いつも讃美歌がありました。
朝を迎える時にも、部屋には静かに讃美歌が流れていました。父の顔が少し寂しそうに見える時には、
「讃美歌をかけようか」と聞きました。すると父は、目を閉じて返事をしてくれました。長い時間かけているので、「静かにしたほうがいい?」と聞くと、父は「消さなくていい」と言うように、また瞼を閉じました。
声に出して歌うことが少なくなっても、讃美歌のしらべは、父のこころを優しく包んでくれているようでした。

以前、父は食卓で祈る前に、必ずと言っていいほど聖書の言葉を口にしていました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」そう言ってから、父は祈りはじめました。
父のこころには、最後まで聖書の言葉が残っていました。
私が「いつも」と言うと、「喜んでいなさい」。
「絶えず」と言うと、「祈りなさい」。
「すべての事について」と言うと、「感謝しなさい」。
まるで、上の句と下の句を合わせるように、父のこころには聖書の言葉が静かに息づいていました。
亡くなる二週間ほど前の朝のことです。その頃の父は、話す言葉も少なくなっていました。思うように動くことも難しくなり、食べることや飲むことの楽しみも限られていました。私は台所で、父が口にする飲みものを用意しながら、父の様子を見守っていました。
すると父は、天を仰ぐようにして、
「あぁ〜!幸せだ〜!」
と大きな声をあげました。どうして父の中から、その言葉が出てきたのか。それをうまく説明することはできません。けれど私は、父のこころのいちばん深いところに残っていたものが、そのひと言になってあふれたのではないかと思うのです。
父の生涯を最後まで支え、共にいてくださった神さまへの感謝。そのようなものが、あの「あぁ〜!幸せだ〜!」という言葉になったのかもしれません。その言葉は、私にとって思いがけない喜びでした。
私はいつも、自分の介護はこれでよかったのだろうか、父に申し訳ないことも多かったのではないかと、どこかで思っていました。だからこそ、あの「あぁ〜!幸せだ〜!」という言葉を思いもよらず耳にした時、驚きとともに、嬉しさとありがたさが胸いっぱいにあふれました。

思わず父のもとに駆け寄り、父を抱きしめて、私も大きな声で「お父さん、ありがとう」と言いました。記憶の多くが遠のき、ふだんは口にする言葉もわずかになっていた中で、父の口からあふれた言葉が、「あぁ〜!幸せだ〜!」だったこと。そのひと言は、父の歩みの中で神さまが見せてくださった、忘れることのできない恵みのように思われました。
いま、あの日、教会からの帰り道に見た満開の桜は、美しい新緑の季節へと変わりました。寂しさの中にも、命の息吹がやさしく私たちを包んでくれているように感じます。