新しい年が始まりました。静かな朝の光の中で、父はベッドに横たわり、母はゆっくりと、手さぐりで歩いています。
世の中は、若さや速さ、できることの多さを価値として語ることが多いけれど、わたしはこの家で、まったく違う価値に触れながら新年を迎えました。それは、老いていくという時間が、神さまに祝福されているということです。
父は91歳。要介護5の状態で、いまはベッドで過ごす時間がほとんどです。母は90歳。要介護3に加え、心臓の障がいと視覚の障がいがあり、かつては見えていた世界が、いまはほとんど見えません。
父は、牧師として教える人でした。聖書を開き、言葉を尽くし、人の前に立ってきた人です。いまは、日常の中で話す言葉は、わずかになっています。それでも不思議なことに、その姿は衰えとしてではなく、生きることそのものが、静かな語りになっているように見えます。
口にする言葉が少なくなっても、父の歩んできた人生そのものが、今もなお、人に何かを伝えているように感じるのです。

母もまた、長い年月、父を支え、家庭を守ってきました。見えていた世界が失われる中で、人の手に支えられて生きるその姿は、失われた尊厳ではなく、いまも大切にされている尊厳だと感じます。
できることが減ることと、人としての価値が減ることは、決して同じではありません。老いの中にあっても、人はなお、神さまのまなざしの中で生きています。
聖書の中に、こんな言葉があります。
「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」第二テモテ4章7-8節/新改訳2017
若い時だけでなく、老いてもなお、神さまのまなざしは変わらず注がれている。わたしは、この家で、そのことを日々教えられています。老いの時間を生きている二人が、今日も神さまの祝福の中にあること。それは特別なことではなく、老いを生きるすべての人に開かれている静かな希望なのだと思います。
新年は、にぎやかではなくても、確かに、神さまの祝福の中で始まっています。